LOGIN征臣が視線だけを落とす。
「ここで開けてもいいし、持ち帰ってもいい」「ここで確認したいです」 反射みたいに、すぐ答えていた。 逃げたくなかった。明日にしたら、眠れない夜が一つ増えるだけだ。 処置室の机を借り、封筒の端を切る。乾いた紙の音がした。 中には、母の短い手紙と、古いUSBメモリが入っていた。銀色の小さな本体に、青い糸が結ばれている。 手紙の一行目には、こうあった。 澪、これを読む頃、あなたが自分の名前で立っていますように。 その下に、USBの合言葉が書かれていた。 封筒の底から、さらに薄い紙が滑り落ちる。 拾い上げた瞬間、見出しの文字が目に入った。 告発状。 未提出の赤い判が、紙の上でやけに濃く見えた。出せなかったのではない。出す直前で止められた。そんな気配が、紙の端に残っていた。 未提出の告発状は、たった数枚だった。 けれど、紙面の余白がほとんど残っていない。日付、契約番号、送金額、受領者名。テーブルの端で、相沢の端末が震えた。彼は画面を見るなり、ほんのわずかに眉を動かした。弁護士が表情を消し損ねる時は、だいたい良くない知らせが来た時だ。 相沢の説明は筋が通っていた。危険を減らし、報道を抑え、白鳥家の出方を見る。聞けば聞くほど正しい。正しいのに、胃のあたりだけがむかついた。「東都経済新聞の関連アカウントが、先ほどの記事を再掲しています」 相沢が言った。「見出しは」 聞く前に、分かっていた気がする。「鷹宮副社長、婚約破棄直後の令嬢を私邸に保護。白鳥家側は遺産持ち出しを主張、です」 保護。遺産持ち出し。画面の上では、私はまた別の女になっていた。 だから、余計に嫌だった。 父もよく「お前のためだ」と言った。 その後に来る話を、私はだいたい知っていた。 黙れ。待て。譲れ。「澪、無理に言葉にしなくていい」 征臣が呼んだ。 名前を呼ばれた瞬間、喉が詰まった。 泣きたくない、と思ったら余計に目の奥が熱くなった。 私は椅子から立った。 膝が少し震えた。机の下で隠れていた震えが、立ったせいで見えてしまう。「申立書を見せてください」 相沢が封筒を出した。 白い封筒の角に、赤い小さな印が押されている。 保留。 母の内容証明にも、届かなかった印があった。 父の机で止まった紙。 鷹宮の会議室で止まった紙。 場所は違うのに、私の声が止められる感触だけが似ていた。 私は封筒を開けた。 申立人欄には、昨夜の自分の字がある。 白鳥澪。 少し右に傾いた、強がった字。 その上に、誰かの判断で保留印が重なっていた。 息が浅くなる。「あの場を、もう一度やらせたくなかった」 征臣が言った。 声は低い。けれど、いつもの低さではない。どこか焦っていた。 私は顔を上げた。「だから、黙って止めた」 征臣の指が袖口から離れた。 言っていることは正しかっ
翌朝、会議室の空気は昨日より乾いていた。 机の上には、私が夜中までかけて作った証拠目録が置かれている。付箋の色は黄色。項目番号は母の帳簿と揃えた。手書きの部分は少ない。震えた字を、あまり人に見せたくなかった。 相沢は書類を読み、数か所に鉛筆で印をつけた。「内容は十分です。ただ、公開聴聞そのものを止める選択肢もあります」 顔を上げた。 相沢ではなく、征臣を見た。 征臣は窓際に立ち、片方の袖口を何度も押さえていた。 その癖を、もう覚えてしまった。言いにくいことがあるときの指だ。「どういう意味ですか」 相沢が答える前に、征臣が口を開いた。「白鳥家側の資料は粗い。公開聴聞に出なくても、記事の撤回と差し止めはできる」「それで、私の申立ては?」「……君を、また人前に立たせたくない」 その言葉で、胸の奥がひやりとした。さっきまで開いていた扉が、目の前で閉まる感じがした。 征臣が私を傷つけたいわけじゃない。たぶん逆だ。だから、何を怒ればいいのか分からなくなる。 君。 その呼び方は、いつもなら胸の内側に残る。今は違った。 私は証拠目録を手前へ引いた。「その申立書、私の名前ですよね」 征臣の喉が動いた。「止める前に、私に言う話じゃないんですか」 相沢が気まずそうに資料を閉じる。 その仕草で、嫌な予感がした。「相沢さん」 声が低くなった。「私の申立書は、もう提出されていますか」 相沢の指が止まった。 一拍。 その一拍で、答えは十分だった。「安全確認のため、提出を保留しています」 保留。赤い二文字を見て、母の書面を思い出した。 父の机で止まった紙。理由は違うのに、嫌な感じだけが似ている。 安全のため、慎重に、時期を見て。聞き慣れた言葉が並ぶほど、指先が冷えた。 紙の上に置いた手から、温度が抜けた。 私は征臣を見た。 彼は言い訳をしなかった。け
名字も名前も、まだそこにあった。 私は封筒を手に取った。 紙が少し冷たい。 征臣の手がわずかに動いた。私はそれを見てから、自分で封を切った。 中から出てきた書面の一行目に、出席要請の文字があった。 その下に、申立人の欄が空白のまま残されていた。 久我山麗子の文面は、短かった。 余計な慰めも、怒りもない。 白鳥家関連寄付金および白鳥澪氏の出生疑義に関する公開聴聞を、第三者委員会準備手続きとして実施する。出席の意思がある場合は、申立人欄に本人署名のうえ、証拠目録を添えて提出されたい。 たったそれだけ。 でも、これまで私に向けられたどの言葉よりも、まっすぐだった。 可哀想だとも、守ってあげるとも書いていない。証拠で話せ、と言われている。 母なら、少し笑ったかもしれない。 澪、泣くのはあとで。先にページ番号を確認しなさい。 そんな声が聞こえた気がして、心のどこかが変に熱くなった。 私は証拠目録の用紙を広げた。 母の帳簿。 港町の紅茶缶から出た写し。 未送信メール。 内容証明の控え。 投薬記録。 戸籍画像の不審点。 項目の横に、日付と保管場所を書き足していく。母の資料は、感情ではなく順番で私をここまで連れてきた。 だから最後まで同じやり方で並べる。申立人欄へ戻るのは、そのあとだ。その順番だけは誰にも決めさせない。 書けるものは多い。けれど、書くたびに、母が一人で持っていた重さが指に移ってくる。 ペン先が紙に引っかかった。「一度、休んだ方がいい」 征臣が言った。 征臣の声は低かったが、書類には手を伸ばさなかった。「止めたら、書けなくなりそうです」 言ったあと、ペンを握る指へ余計に力が入った。 征臣は私の手元を見た。「書類には触れない。水だけ持ってくる」「……お願いします」 返事をして、申立人欄の上に手を置いた。 白鳥澪。
私は本文の続きを読んだ。 白鳥家側は、近日中に戸籍資料を提示する意向だという。 画面の白さが、急に紙のように見えた。 紙は、いつも誰かの都合で私の立場を書き換えてきた。席次表。契約書。診断書。告発状。 今度は、戸籍。 記事の最後に、小さく添えられた写真があった。 写真の中の涙は、誰に落ちるためのものなのだろう。父か、瀬里奈さんか、世間か。画面越しの涙なのに、昔と同じ甘い匂いがする気がした。 画面を伏せれば、その間だけは楽になれる。けれど、莉々花の涙だけが事実として残り、私の戸籍だけが疑われる。それを征臣に処理させて待つつもりはなかった。 ぼかされた書面の端に、白鳥家の家印らしい赤い影が滲んでいた。 画面越しでも、彼女の肩は小さく震えていた。けれど、その震え方を私は知っている。泣き慣れた人の、崩れないための震えだった。 記事の下には、短い動画が埋め込まれていた。 莉々花はカメラの前で泣いていた。話の切れ目ごとに画面の脇へ目が動く。そこに何があるのかは映っていない。鏡か、スタッフか。私は動画を一度止めた。『お姉様が、私の戸籍まで奪おうとしているんです』 震える声。けれど、画面の隅で、配信前に置かれた照明だけが妙に明るかった。 コメントが流れる。 妹さん可哀想。 姉の方が本当は偽物なんじゃない? 御曹司を捕まえたら、次は戸籍か。 胃の奥が冷えた。涙は、ここまで人の名前を汚せるのか。 東京に戻ったのは、その日の夕方だった。 雨は降っていなかったのに、車の窓には細かい水滴が残っていた。港の湿気をそのまま連れて帰ってきたみたいで、少し気持ちが悪い。 鷹宮邸の会議室には、顧問弁護士の相沢が待っていた。銀縁の眼鏡をかけた、声の小さい男性だ。書類を机に置く手つきは正確で、紙の角がすべて同じ方向を向いている。「記事に出ている画像ですが、正式な戸籍謄本そのものではありません」 相沢は一枚のプリントをこちらへ向けた。 拡大された画像の端に、薄い線が走っている。コピー機の影かと思った。けれど、相沢はそ
「どうぞ。鍵は開いています」 扉が開く。 征臣の手には、タブレットがあった。画面は伏せられている。 悪い知らせだと、見ただけで分かった。彼は本当に隠すのが下手になった。「東京で記事が出た」「白鳥家ですか」「おそらく」 彼はそこで言葉を止めた。 以前なら、対策まで一息に話したはずだ。 征臣は画面を伏せたまま、こちらを見た。 私はタブレットを受け取った。 指先の包帯が、画面の端に触れる。 ニュースサイトの見出しは大きかった。 白鳥家長女に出生疑惑。 その下に、莉々花が涙を浮かべている写真が貼られていた。 私はしばらく、その涙の角度を見ていた。「もう、何か考えていますね」 征臣は答えず、タブレットを差し出した。「今は、言わないでください」 征臣はタブレットから手を離し、椅子を一つ離して座った。画面を覗き込むことも、先に記事を要約することもしない。 スクロールする指が止まっても、続きを促す声はなかった。私が自分で読む速度に合わせて、ただ待っている。 私は画面へ目を戻した。 泣く前に鏡を見る妹の顔だった。 涙は頬の中央を通り、睫毛は濡れているのに目元の化粧は崩れていない。見る人が続きを想像できるよう、唇だけがわずかに開いていた。 小学校の発表会で私の髪飾りを壊したときも、父の前では右頬だけを見せて泣いた。右側から見ると、莉々花は一番可哀想に見える。父はその顔に弱かった。 記事の本文を、指で送る。 白鳥家関係者によれば、長女とされてきた白鳥澪氏には出生に関する重大な疑義があるという。 長女とされてきた。 その五文字に、指が止まった。 征臣の指が端末の横まで来て、止まった。 画面は伏せない。 私は震える手で端末を持ち直した。「見せてください。……怖いけど、あとで知る方が嫌です」 声が硬くなった。「何をされてるのか分からないままは、もう無理です」
その気遣いが、少し痛い。「もう疑っています」 言葉は、はっきり出た。 自分で驚く。「ただ、まだ娘でもあるんです」 言った瞬間、息が詰まった。 白鳥家で、父に名前を呼ばれた記憶は少ない。たいていは、お前。姉だろう。白鳥家のために。そんな言葉ばかりだった。 それでも、幼い頃に一度だけ、熱を出した私の枕元に水を置いた手を覚えている。母が部屋を離れていたほんの短い時間、父が無言でコップを置いた。優しい言葉はなかった。けれど、あの水の冷たさだけを、なぜか忘れられない。 そんな小さな記憶が、今になって邪魔をする。 父を疑うなら、あの日のコップまで偽物にしなければならない気がした。 私は母の帳簿に手を置いた。 紙の角が、包帯の端に触れる。「でも、娘だからって、ここで閉じたくありません」 征臣は何も言わなかった。 今はそれでよかった。肯定されても、励まされても、たぶん苦しかった。「父の名前が出ても、この帳簿は最後まで読みます」 声は揺れなかった。 揺れないことが、逆に悲しい。 征臣が机の向こうで、小さく頭を下げた。命令でも、約束でもない。聞いた、という仕草だった。「読み終わるまで、誰にも邪魔させない」 それだけ言った。 大丈夫だとは言わなかった。 勝てるとも言わなかった。 守ろうとしたのは、私そのものではなく、私が読み終えるまでの時間だった。 その違いを、彼は多分、選んだ。 診療所の窓の外で、港の風が看板を揺らした。 父の署名は、診療所の薄い光の下で妙に平然としていた。そこに並ぶ名字を見て、呼吸の通り道が狭くなる。 水を飲めば少し楽になると分かっていた。でも私はグラスに手を伸ばさず、父の署名だけを見ていた。 私は母の帳簿を開き直した。 征臣は本当に、私が読み終えるまで部屋へ戻ってこなかった。 診療所の小さな処置室に、私と帳簿とパソコンだけを残し、彼は廊下へ出た。扉は閉めきらない。拳一つ分だけ開いている。呼べば届く距離。入